無能さを認める
夫婦カウンセリングに興味がある。
自分一人の問題なら一人黙考したり本を読んで知見を得たりして改善がみられることもある。
でも夫婦二人の問題は一方の当事者が大きな声で何かを言っても効果はない。
それは相手の心が開いていないから。
何かを変えようと思うほど相手は困っていないし、こちらの心の痛みや苦しみにも関心がない。
そして相手は相手でいっぱいいっぱいだったりする。
その状態ではちょっとやそっとで相手の心に届くことはない。
そのためこちらの行動はエスカレートし、最後には破滅にいたる。
なぜエスカレートするかと言えば、こちらは苦しんでいるのに相手は無頓着というのに日々恨みがたまり、ここまでやってもダメなのか、それならもっと過激なことをやらなければとなるからだ。
ただその道は破滅へ続いているだけなので、その前に専門家の介入を受けるのがよい。
早く自分らは無能だと認めたほうが楽になれる。
夫婦二人は二人の問題を二人で解決できるほど優秀でもなければ技能もない。
だからこんなことになってるのだ。
正直、相手に話が通じなさ過ぎてバカに思えることもあるだろう。
それも度々。一度や二度ではない。
そのたびに心に冷たい決意がたまっていくのを感じる。
『いつか天罰を下してやる』と。
その状態を変えるのにカウンセラーに期待するところは大きい。
実際のところは相手はバカなのではなく、コミュニケーションの行き違いであることも多い。
それならそれでラッキーだ。
男女間コミュニケーションの交通整理が得意なカウンセリングサービスに行けばよい。
もっと問題が根深い場合もある。
相手の心がガチガチに凝り固まり、まるで昆虫か爬虫類、あるいは精神疾患患者に話しているかのように思うこともある。
その場合は自分の将来にも痛みが伴う。
「いつか分かり合える」という夢を諦めなければならないからだ。
その場合はカウンセリングの目的は、「自分の夢にさよならしてなおかつどう生きる希望をよみがえらせるか」ということになるだろう。
酷なことだが、叶わない幻想に無駄な時間を費やさずに済み、残りの人生をマシなことに使える。
問題は、カウンセリングは玉石混交であり相性の合う合わないもあるということ。
決して安価なサービスではないので、やってみて効果なかった場合のショックは大きい。
事前に得られる情報も少なく、どこに助けを求めればいいのか運試しのようになってしまうという問題がある。
ではどうするか。
いやもうこれは、やってみるしかない。
自分がこれはよさそうだと思ったものに当たってみるだけだ。
何をよいと思うかは自分の好みで決めればいい。
迷ったらやってみる。
その中でも俺の好みとしては、学術的な背景がしっかりしていて歴史と実績のあるものがよい。
探した中でよさそうだと思ったのは下の二つ。
上は夫婦問題に特化していて理論的バックグラウンドもしっかりしてそう。
下は様々な手法の専門家がいるので自分の課題にあった技法に出会えそう。
この二つには行ってみたい。
そういうサービスが受けられる時代にいることに感謝だ。
今日の教訓
- 夫婦二人の問題を二人だけで解決できるほど自分らは優秀ではないことを認める
- 外部の専門家も当たり外れがあるだろうが、よさそうなところもある
- コミュニケーションの行き違いが問題ならそれは専門家の得意分野なのでまだ希望は持てる
- 実際試してみて判断するのがよい
やってみた結果はまた報告する予定。
コメント