さて、これまでは主に継子の愛着障害の問題について取り組んで来た。
しかし妻も明らかに愛着障害である。
これは妻側の家系の問題だ。
愛着とは何かというと、『特定の人との情緒的な心の絆』である。
それが妻にはない。
妻の実家に行って人間模様を観察すると分かる。
そこで繰り広げられるのは儀礼的で表面的で病的なやり取りである。
あーしろこーしろ、誰がこうだああだ、勉強がどうのこうの。
見ててキモい。
一緒に楽しく遊ぶ、という交流が存在しない。
誰かが人生の冒険をして、その体験を楽しくシェアする、という交流も存在しない。
仲間がついてる、という感じではない。
ダメ出ししてくる看守や足を引っ張ってくる囚人どもと監視し合ってるという感じである。
日本の学校のクラスに似ている。
吐きそう。おえ。
さて、そんな妻が選んだのが「宗教」である。
そこは愛着に問題を抱えた人たちが集まるたまり場だ。
いわば底辺の人たちが集まっているので、妻も気後れすることなく参加できる。
相手のバカさを見て安心し、自分のバカさを打ち明けることができる。
そういう遊びが成り立つ。
自分のしてしまった愚かな行為を懴悔し、一緒にお経にすがる。
そういう遊び。
俺は別に楽しいと思わない。
が、妻はそれが楽しいのだろう。
そして、相手の好きな遊びを一緒にしてやると仲が良くなる。
うむ、めんどい。
めんどいが、妻の愛着問題を改善するためにはそこらへんが重要になる。
そして、相手が楽しく遊んだ経験に耳を傾ける。
それが情緒的な絆を形成するということだ。
相手の好きな遊びを一緒にやり、相手の体験に耳を傾ける。
それだ。
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