みじめだね。
子供を泣かすことしかできなくて、子供を否定して自分を守るしかできない妻が。
吐き気がするほどみじめである。
それは妻が妻の親からされてきたことであり、その一族がみじめだということだ。
妻はそのみじめな一族出身である。
仕事ができるつもりで自我を保っているが、その仕事自体も大したことはなく、実際は「あなたは今まで自分が見たなかで最も能力が低い人材だ」と言い放たれて辞めたこともある。
結婚でもそう。
「あなたの頭がおかしいからこんなことになった」と言われて離婚している。
みじめだが、そのみじめさを受け止める度量もなく、見ないようにして必死で生きているのが余計にみじめである。
だからこそ、子供が少しワーッとなると妻も心を保てない。
それは普段、自分のみじめさを取り繕うためにエネルギーを使っているからである。
妻には安心できる場所などどこにもない。
自分のみじめさを直視できる度量もない。
空虚感と劣等感と取り繕いで生きている。
キモい。
だが俺がキモいと感じるのは俺の問題である。
俺は俺のリソースが削られ、子供たちがスポイルされていくのを見るのが耐えられない。
ゴミのように醜い妻によって。
それだけの話である。
だがその気持ちももっともなことだ。
俺は俺をエンパワーメントしていく必要がある。
妻のみじめな一族の負の遺産によって、俺の人生が険しく取り返しのつかないものになることに対して、恐れと嫌悪感を抱くのは正常なことである。
そこから俺自身のエンパワーメントが始まる。
自分が妻と子供たちのみじめさを乗り越えて、彼ら自身の生きる力をエンパワーメントしていくための俺自身の力をエンパワーメントしていく。
俺自身には知性、資金、メンタルスキル、人とのつながりなど、様々なリソースがある。
それを活用しながら自分自身の恐れを乗り越えていくことができる。
問題は、妻のバカさや家系の醜悪さ、未来の不吉な予測に圧倒されそうになることである。
妻は妻なりにベストを尽くしている。
そこは認めよう。
やっぱりまた議論は元に戻るのだが、回復不能な認知の歪みを抱えた家族の対応に追われる俺自身を、どう支えていくのかという問題に帰着する。
認知症の介護などにも共通する問題だ。
これからの日本の課題だろう。
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